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第四章「骨の図書館」

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-11-26 11:27:18

 五十年が経過した。

 私の骨は、今や完全に生態系の一部と化していた。白かった骨の表面は、今では様々な色で覆われている。赤、黄色、紫、オレンジ。それらは全て、生命の色だった。

 サンゴ、海綿動物、ホヤ、イソギンチャク。固着性の生物たちが私の骨を自分たちの土台として使っている。そして、その生物たちを餌とする捕食者たちが集まり、複雑な食物網が形成されていた。

 もはや私の骨は、骨には見えなかった。それは一つの小さな海底山脈のようだった。

「君は立派な建造物になった」

 船の魂が褒めてくれた。

「私の船体に匹敵する。いや、生命の密度では君の方が上かもしれない」

 私は誇らしかった。そして同時に、不思議な感覚を抱いていた。

 私はもう、自分の骨を「私のもの」とは感じていなかった。それは私を超えた何か、もっと大きな存在の一部だった。

 そして、私の意識も変化していた。

 かつて私は、自分の骨の周辺しか認識できなかった。しかし今、私の認識の範囲は広がっていた。半径500メートル。この深海底の広い範囲を、私は同時に感じ取ることができた。

 そこには、他の死骸もあった。

 巨大なマグロの骨。イカの殻。そして、遠くに別のクジラの骨も見えた。彼は私より後に沈んできた新参者だ。まだ意識は芽生えていないようだった。

「彼もいずれ目覚めるだろう」

 船の魂が言った。

「そして、我々の仲間になる」

 私は船の魂との対話を楽しんでいた。しかし最近、彼の「声」が少しずつ変化していることに気づいていた。

 かつては明瞭だった彼の思考が、今では時々曖昧になる。言葉が途切れる。そして、彼の意識が私の意識と混ざり合うような瞬間がある。

「私は消え始めている」

 ある時、彼が告げた。

「300年は長すぎた。私の船体はもう、ほとんど残っていない。船としての形も失われた。そして、私の意識も溶解し始めている」

 私は恐怖を感じた。

「では、あなたは消えるのか?」

「消えるというよりは、変容する」

 彼は穏やかに答えた。

「私は海になる。この深海の一部になる。考えてみれば、それは悪いことではない。個であることは、時に孤独だった。しかし全体になれば、もう孤独ではない」

「私も、いずれそうなるのか?」

「そうだ。しかし焦る必要はない。君にはまだ時間がある。君の骨はまだ十分に残っている。そして、君にはまだ語るべき物語がある」

「物語?」

「君の記憶だ。君が生きた100年の記憶。それを私に聞かせてくれないか? 私が完全に消える前に」

 私は戸惑った。私は自分の人生について、深く考えたことがなかった。ただ生きて、泳いで、食べて、繁殖した。それだけだった。

 しかし、船の魂に促されて、私は語り始めた。

 私の最初の記憶。

 私は冬の海で生まれた。母の体内から押し出され、冷たい水に触れた瞬間。本能的に水面へと泳ぎ、最初の呼吸をした時の、肺に空気が満ちる感覚。

 母の乳の味。温かく、脂肪分に富んでいた。私は一日に600リットルの乳を飲んで育った。

 そして、最初の歌。母が私に歌ってくれた子守唄。それは単なる音の羅列ではなく、意味を持っていた。それは教えだった。どこに餌場があるか。どこが危険か。どうやって潮の流れを読むか。

 私は母から学んだ。そして成長した。

 三歳の時、私は母から離れた。それは悲しい別れではなく、自然な独立だった。私は一頭で大洋を泳ぎ始めた。

 最初の恋。

 十二歳の時、私は初めてオスに出会った。彼は私に歌を歌った。複雑で、力強く、美しい歌だった。彼は私に求愛した。そして私は受け入れた。

 しかし、交尾の後、彼は去った。それが私たちのやり方だった。私たちシロナガスクジラは、生涯のつがいを作らない。出会い、愛し合い、そして別れる。

 最初の出産。

 陣痛が始まった時、私は恐怖した。しかし本能が私を導いた。温かい海へ。浅瀬へ。そして、私は7メートルの小さな命を産んだ。

 その子が最初の呼吸をした瞬間、私は初めて真の愛を知った。

 それは性的な愛でも、友情でもない。もっと深い、もっと根源的な何かだった。この子のためなら、私は死ねる。そう確信した。

 私はその子に歌を歌った。私が母から学んだ歌を。そして、その子はその歌を覚えた。

 やがてその子は独立した。私は一人になった。しかし孤独ではなかった。海のどこかに、私の子が泳いでいる。それだけで十分だった。

 私は12回出産した。全ての子が無事に育ったわけではない。二頭は幼くして死んだ。シャチに襲われた子。病気にかかった子。

 しかし10頭は生き延びた。彼らは今、どこかの海を泳いでいるだろう。

 そして、最後の日々。

 私は老いを感じ始めた。泳ぐのが遅くなった。餌を捕るのが難しくなった。そして、ある日、私は知った。もうすぐ終わりが来ると。

 私は本能に従って、深い海へと向かった。温かい海ではなく、冷たい海へ。浅瀬ではなく、深淵へ。

 そして、最後の呼吸をした。

 肺から空気が抜けていく。心臓が止まる。意識が薄れる。

 しかし、完全には消えなかった。

 私の「視点」は残った。そして今、ここにいる。

「美しい人生だった」

 船の魂が言った。

「君は良く生きた。そして今、良く死につつある」

 私は感謝した。語ることで、私は自分の人生を初めて理解した気がした。

「では、あなたの物語を聞かせてほしい」

 私は言った。

「あなたは何だったのか?」

 船の魂は長い沈黙の後、語り始めた。

「私はサン・ミゲル号だった。スペインの商船だ。1721年、私はマニラからアカプルコへと向かっていた。積荷は、絹、陶磁器、香辛料。そして、72名の人間」

 彼の記憶が、映像のように私の意識に流れ込んできた。

 太陽の下で輝く帆。甲板を走り回る船員たち。船長の厳しい顔。料理人が作る粗末な食事。夜、星空の下で語り合う若い船員たち。

「私たちは嵐に遭った。太平洋の真ん中で。風速50メートルを超える暴風。波の高さは20メートルに達した」

 船体が軋む音。マストが折れる轟音。乗組員たちの叫び声。

「私は沈んだ。そして、乗組員たちは全員死んだ」

 彼の声に、今でも悲しみが滲んでいた。

「私は彼らを守れなかった。それが今でも、私の最大の後悔だ」

「しかし」

 私は言った。

「あなたは彼らを忘れていない。300年経っても、彼らを覚えている。それは、ある種の不死ではないか?」

「そうかもしれない」

 船の魂は認めた。

「記憶は、一つの生命だ。私が覚えている限り、彼らは死んでいない」

 私たちは長い間、静かに並んで横たわっていた。

 一頭のクジラと一隻の船。どちらも死んでいるのに、まだ存在している。

「私は、もうすぐ消える」

 船の魂がついに告げた。

「しかし、君がいる。君が私の記憶を受け継いでくれる。だから、私は本当には消えない」

「私はあなたの記憶を保つ」

 私は誓った。

「あなたと、あなたの乗組員たちの記憶を。永遠に」

「ありがとう」

 彼は言った。

「では、最後に一つ教えよう。大切なことを」

「何だ?」

「境界は幻想だ。君と私の境界。生と死の境界。自己と他者の境界。全ては繋がっている。君がそれを完全に理解した時、君は真に自由になる」

 そして、彼の声は静かになった。

 完全に消えたわけではない。しかし、明瞭な意識ではなくなった。彼は溶解し始めている。海そのものになりつつある。

 私は一人になった。

 いや、一人ではない。私の骨には何百という種の生物が住んでいる。そして今、私の中には船の魂の記憶もある。

 私は孤独ではない。

 私は、かつてないほど豊かな存在だ。

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